阪神大震災メモリアルコンサートシリーズ「つなぐ想い―1.17―」
2008年1月19日阪神大震災が起こった日から13年が経った2008年1月17日、 神戸国際会館こくさいホールで行われた「阪神大震災メモリアルコンサートシリーズ『つなぐ想い―1.17―』」へ行って参りました。
行くことが決まったのはずいぶん前でしたが、「阪神大震災メモリアルシリーズ」とはいえ、実際には「和央ようかさんのコンサート」というイメージしか持っていませんでした。1月17日の朝、正直なところ今日が震災の日だということさえ忘れていて、ただ「今日コンサートやなぁ。風邪引いてんのになぁ・・・」ぐらいにしか考えていませんでした。
そして、私は大学で3限分の定期試験を受けてから、神戸へ向かうため阪神電車に揺られながら、ふと窓の外を見てみました。今日が震災の日ということを今更ながらに思い出したから。
特に新しいとも思わないマンションやビルが点々と、そしてこれまた新しいとは思わない普通の家々と、向こうに見える阪神高速。出身地は知らないけれど、私も通っている兵庫県にあるM大学に通う他の学生たちの姿や顔も思い出してみる。それらは目の前にあるのが当たり前すぎる光景で、一度なくなったものだとは決して思えないもの。不思議だった。
そしてふと思い出す、10年以上前の自分。
阪神大震災が起こったとき、私は8歳、小学校2年生で、弟と一緒にベッドを並べて2人の寝室で寝ていました。何かが起こっているという感じがして目を開けた時には父が私と弟の上に覆いかぶさって守ってくれており、すぐに2階の寝室から1階のリビングへ移動し、ダイニングテーブルの下でずっと起きていたか、仮眠をとったか、とにかく待機していました。18日は小学校に普通に登校しましたが、先生の話があるだけで、午前中に集団下校したような記憶があります。
我が家は大阪北部にありますので、震度4ですみました。ただ、リビングに置いてあった壷は床に落ちて粉々になりましたし、隣の市に住んでいる親戚の家では食器棚が倒れて食器類がすべて割れたと言っていました。
小学校では学用品の寄付の運動が行われており、私も鉛筆を寄付したように覚えています。あと、一番記憶に残っているのは、震災後ずっと地震(そしてその後の火事)で亡くなられたの方の名前がテレビで流れていたこと。キャスターの姿は映らないけれど、画面に亡くなった方の名前が出て、それを読み上げているんですよ。そしてたまに、亡くなった時の様子などを付け加える時がありました。「○○○○ちゃん、0歳、テレビの下敷きになって亡くなりました」という言葉を覚えています。
そして、震災からどれだけ経ってからなのかは忘れてしまいましたが、私は家族で神戸の科学館へ遊びに行きました。歩道にひびが入っていてがたがたしていたのと、電車から白い仮設住宅が見たのが印象的でした。
あのニュースで毎日のように見ていた街と、今電車から見ている街が本当に同じ街なんだろうか、と しみじみと不思議に思うと同時に、やはり人間の強さを感じました。人って本当に前向きだと思う。生死に関わるような窮地に陥っても、「もう何をやっても駄目だ・・・」って思わないじゃない。しがみついてでも「生きたい」と思うから。っていう風に考えたら、この世に生を受けている生き物すべてが前向きなんだけど。
さて、前振りが長くなってしまいましたが、「阪神大震災メモリアルコンサートシリーズ『つなぐ想い―1.17―』」。
全体的に木でできたシックな感じで、大きくてすごく綺麗な劇場でした。横にはオペラ座みたいにボックス席があって、「うわー、あそこにとうこさん(フィリップ)がいたんやな!」とか阿呆なことを考えていました。1階席から見る限り、3階席はたぶん誰も座っていなかったようです。
今回はたかこさんこと和央ようかさんは司会。ファンの方には心配されていたようですが。
幕が開き、震災当時の映像で始まり、たかこさんことはしばらくライト浴びずに板付きのまま、手元の台本を読まれていました。
たかこさんは途中で着替えることもなく、ずっと全身白のお衣装でした。白のひらひらしたワンピースに、白い細身のパンツをはき、白のジャケットを着て、髪の毛は少し明るめの茶色、前髪を横に分けて、後ろ髪は上部の髪だけまとめて後ろで括っていらっしゃいました。母曰く「ヘアメイクはおらんのか?」な髪型です。
そういえば、同じく司会の原田伸郎さんから、始まるなり「こんな見上げるような大きな人とお仕事したことありません」とか、第二部で上手側にいた歌手の森川美穂さんが「原田さん、なんか距離がありません?」と下手側の原田さんに声を掛けた時、「壁があって」と言われていました。そのたびにたかこさんは爆笑していました。
第一部では神戸市消防音楽隊、関西学院聖歌隊、神戸大学グリークラブ(←関学と前後するかもしれません)、たかこさん、甲南女子中学・高校コーラス部、全員で合唱と、音楽が続きました。
たかこさんはディズニー映画「ヘラクレス」の「Go The Distance」を相変わらず歌われていました。もうこの曲はたかこさんの持ち歌なんでしょうか。その後ZARDの「負けないで」を甲南のみなさんと歌われていました。私は「One Heart」が聴きたかったです。(と言ったら母に「それはないやろ」とばっさり斬られました)
最後は、「あの日から、僕らは」という震災を歌った曲を全員で合唱。
合間のMCでは例の「えと文」のおかげで助かったというお話をされていました。あと、急遽東京に帰りたいといった同期のために伊丹空港まで車で送っていき、行きは数十分で済んだところを、帰りは交通が麻痺していて14時間かかり、車の中で寝たりしたという話もされていました。
第二部では森川美穂さん、沢田知可子さん、そして二人で、と歌い継がれ、「うわぁ〜やっぱり歌手だぁ・・・」と思いました。(悪意はまったくありません)
特にやはり沢田さんの歌が良かったです。「会いたい」は母曰く「泣ける」という曲。題名だけではわからなかったけれど、実際に歌われるのを聴いていたら、やはりサビの部分は聴き覚えがありました。感動して泣きそうになりましたが、でも実際に涙を流したのは次に森川さんと一緒に歌われた「頑張れ」(←もしかしたら平仮名か片仮名かもしれませんが)という曲でした。友人が自殺をし命は取り留めたものの重体になっていて、それを気付けなかったことを悔やみながらも「頑張れ」と切実に願っている、という曲。少し身の回りと重なってしまうところがあって、無駄に共感してしまいました。
最後は第一部の出演者と司会と第二部出演者合同で第一部最後の同様「あの日から、僕らは」を合唱。
私は「千の風になって」がどこかで歌われることを期待していました。特に第一部の最後。・・・正直一回でよかったんじゃないですか?
ちなみに、拍手が一番大きかったのは「負けないで」でした。その次が「Go The Distance」。森川さんと沢田さんは普通サイズ。・・・そのわけは・・・以下。
今回はたかこさんの出待ちがあるということで、さぁ向かおうとホールから出てみると、もうたかこさんファンの長蛇の列が出来ていて、しかもどんどん増えるファンたちで前にも後ろにも進めない状況。なんとか列になり、階段を上がって数階上まで並ばされました。整備が進んで皆がホール前に真ん中を空けて整列でき少ししてから、舞台とは真反対の全身黒ずくめの服でたかこさんが登場されました。比較的近くで聞けたのですが、震災についてすごく真面目に語っていらっしゃいました。本人も「私こんな真面目な話しにきたんじゃないのに」って言って笑っていました。
出待ちに集まったたかこさんファンは私が見たところ約1000人。次の日読売新聞に出ていた記事によると、コンサートの観客は約1500人。そりゃ観客のうち3分の2がたかこさんファンなら、拍手が一番大きくなるのもわかりますよね・・・。
あまりにも人が多すぎてお手紙は回収形式だったのですが、私はファンクラブ会員でもないのに、「すいませーん、お手紙前お願いしますー!」とかお手伝いしていました。「『お手紙』とか言ってる・・・」と呆然と呟いた私に母は爆笑していました。
たかこさんの司会は、うーん、進行というよりも台本を読んで、そして原田さんの質問に答えているだけという感じでしたが、原田さんにからかわれるたかこさんは可愛かったし、歌はみんな楽しめましたので良いコンサートだったと思います。
これでひとまず宝塚関係の予定は終わりで、しばらくは観劇予定もありません。月組行くかなー?行かないかなー?行きたいなーぐらいです。宙は行かない。初日のチケットのお声も掛けていただいたんですが、ちょっと今回は見送らせていただきました・・・。
今回のことがあったから、たぶん私はしばらくは震災のこと忘れませんよ。地震が起こって身の危機を感じたら、玄関のドアを開けにいくか机の下に潜り込むかします。今は友だちにプレゼント予定のAQUA5の水もありますし・・・。(関係ない)
行くことが決まったのはずいぶん前でしたが、「阪神大震災メモリアルシリーズ」とはいえ、実際には「和央ようかさんのコンサート」というイメージしか持っていませんでした。1月17日の朝、正直なところ今日が震災の日だということさえ忘れていて、ただ「今日コンサートやなぁ。風邪引いてんのになぁ・・・」ぐらいにしか考えていませんでした。
そして、私は大学で3限分の定期試験を受けてから、神戸へ向かうため阪神電車に揺られながら、ふと窓の外を見てみました。今日が震災の日ということを今更ながらに思い出したから。
特に新しいとも思わないマンションやビルが点々と、そしてこれまた新しいとは思わない普通の家々と、向こうに見える阪神高速。出身地は知らないけれど、私も通っている兵庫県にあるM大学に通う他の学生たちの姿や顔も思い出してみる。それらは目の前にあるのが当たり前すぎる光景で、一度なくなったものだとは決して思えないもの。不思議だった。
そしてふと思い出す、10年以上前の自分。
阪神大震災が起こったとき、私は8歳、小学校2年生で、弟と一緒にベッドを並べて2人の寝室で寝ていました。何かが起こっているという感じがして目を開けた時には父が私と弟の上に覆いかぶさって守ってくれており、すぐに2階の寝室から1階のリビングへ移動し、ダイニングテーブルの下でずっと起きていたか、仮眠をとったか、とにかく待機していました。18日は小学校に普通に登校しましたが、先生の話があるだけで、午前中に集団下校したような記憶があります。
我が家は大阪北部にありますので、震度4ですみました。ただ、リビングに置いてあった壷は床に落ちて粉々になりましたし、隣の市に住んでいる親戚の家では食器棚が倒れて食器類がすべて割れたと言っていました。
小学校では学用品の寄付の運動が行われており、私も鉛筆を寄付したように覚えています。あと、一番記憶に残っているのは、震災後ずっと地震(そしてその後の火事)で亡くなられたの方の名前がテレビで流れていたこと。キャスターの姿は映らないけれど、画面に亡くなった方の名前が出て、それを読み上げているんですよ。そしてたまに、亡くなった時の様子などを付け加える時がありました。「○○○○ちゃん、0歳、テレビの下敷きになって亡くなりました」という言葉を覚えています。
そして、震災からどれだけ経ってからなのかは忘れてしまいましたが、私は家族で神戸の科学館へ遊びに行きました。歩道にひびが入っていてがたがたしていたのと、電車から白い仮設住宅が見たのが印象的でした。
あのニュースで毎日のように見ていた街と、今電車から見ている街が本当に同じ街なんだろうか、と しみじみと不思議に思うと同時に、やはり人間の強さを感じました。人って本当に前向きだと思う。生死に関わるような窮地に陥っても、「もう何をやっても駄目だ・・・」って思わないじゃない。しがみついてでも「生きたい」と思うから。っていう風に考えたら、この世に生を受けている生き物すべてが前向きなんだけど。
さて、前振りが長くなってしまいましたが、「阪神大震災メモリアルコンサートシリーズ『つなぐ想い―1.17―』」。
全体的に木でできたシックな感じで、大きくてすごく綺麗な劇場でした。横にはオペラ座みたいにボックス席があって、「うわー、あそこにとうこさん(フィリップ)がいたんやな!」とか阿呆なことを考えていました。1階席から見る限り、3階席はたぶん誰も座っていなかったようです。
今回はたかこさんこと和央ようかさんは司会。ファンの方には心配されていたようですが。
幕が開き、震災当時の映像で始まり、たかこさんことはしばらくライト浴びずに板付きのまま、手元の台本を読まれていました。
たかこさんは途中で着替えることもなく、ずっと全身白のお衣装でした。白のひらひらしたワンピースに、白い細身のパンツをはき、白のジャケットを着て、髪の毛は少し明るめの茶色、前髪を横に分けて、後ろ髪は上部の髪だけまとめて後ろで括っていらっしゃいました。母曰く「ヘアメイクはおらんのか?」な髪型です。
そういえば、同じく司会の原田伸郎さんから、始まるなり「こんな見上げるような大きな人とお仕事したことありません」とか、第二部で上手側にいた歌手の森川美穂さんが「原田さん、なんか距離がありません?」と下手側の原田さんに声を掛けた時、「壁があって」と言われていました。そのたびにたかこさんは爆笑していました。
第一部では神戸市消防音楽隊、関西学院聖歌隊、神戸大学グリークラブ(←関学と前後するかもしれません)、たかこさん、甲南女子中学・高校コーラス部、全員で合唱と、音楽が続きました。
たかこさんはディズニー映画「ヘラクレス」の「Go The Distance」を相変わらず歌われていました。もうこの曲はたかこさんの持ち歌なんでしょうか。その後ZARDの「負けないで」を甲南のみなさんと歌われていました。私は「One Heart」が聴きたかったです。(と言ったら母に「それはないやろ」とばっさり斬られました)
最後は、「あの日から、僕らは」という震災を歌った曲を全員で合唱。
合間のMCでは例の「えと文」のおかげで助かったというお話をされていました。あと、急遽東京に帰りたいといった同期のために伊丹空港まで車で送っていき、行きは数十分で済んだところを、帰りは交通が麻痺していて14時間かかり、車の中で寝たりしたという話もされていました。
第二部では森川美穂さん、沢田知可子さん、そして二人で、と歌い継がれ、「うわぁ〜やっぱり歌手だぁ・・・」と思いました。(悪意はまったくありません)
特にやはり沢田さんの歌が良かったです。「会いたい」は母曰く「泣ける」という曲。題名だけではわからなかったけれど、実際に歌われるのを聴いていたら、やはりサビの部分は聴き覚えがありました。感動して泣きそうになりましたが、でも実際に涙を流したのは次に森川さんと一緒に歌われた「頑張れ」(←もしかしたら平仮名か片仮名かもしれませんが)という曲でした。友人が自殺をし命は取り留めたものの重体になっていて、それを気付けなかったことを悔やみながらも「頑張れ」と切実に願っている、という曲。少し身の回りと重なってしまうところがあって、無駄に共感してしまいました。
最後は第一部の出演者と司会と第二部出演者合同で第一部最後の同様「あの日から、僕らは」を合唱。
私は「千の風になって」がどこかで歌われることを期待していました。特に第一部の最後。・・・正直一回でよかったんじゃないですか?
ちなみに、拍手が一番大きかったのは「負けないで」でした。その次が「Go The Distance」。森川さんと沢田さんは普通サイズ。・・・そのわけは・・・以下。
今回はたかこさんの出待ちがあるということで、さぁ向かおうとホールから出てみると、もうたかこさんファンの長蛇の列が出来ていて、しかもどんどん増えるファンたちで前にも後ろにも進めない状況。なんとか列になり、階段を上がって数階上まで並ばされました。整備が進んで皆がホール前に真ん中を空けて整列でき少ししてから、舞台とは真反対の全身黒ずくめの服でたかこさんが登場されました。比較的近くで聞けたのですが、震災についてすごく真面目に語っていらっしゃいました。本人も「私こんな真面目な話しにきたんじゃないのに」って言って笑っていました。
出待ちに集まったたかこさんファンは私が見たところ約1000人。次の日読売新聞に出ていた記事によると、コンサートの観客は約1500人。そりゃ観客のうち3分の2がたかこさんファンなら、拍手が一番大きくなるのもわかりますよね・・・。
あまりにも人が多すぎてお手紙は回収形式だったのですが、私はファンクラブ会員でもないのに、「すいませーん、お手紙前お願いしますー!」とかお手伝いしていました。「『お手紙』とか言ってる・・・」と呆然と呟いた私に母は爆笑していました。
たかこさんの司会は、うーん、進行というよりも台本を読んで、そして原田さんの質問に答えているだけという感じでしたが、原田さんにからかわれるたかこさんは可愛かったし、歌はみんな楽しめましたので良いコンサートだったと思います。
これでひとまず宝塚関係の予定は終わりで、しばらくは観劇予定もありません。月組行くかなー?行かないかなー?行きたいなーぐらいです。宙は行かない。初日のチケットのお声も掛けていただいたんですが、ちょっと今回は見送らせていただきました・・・。
今回のことがあったから、たぶん私はしばらくは震災のこと忘れませんよ。地震が起こって身の危機を感じたら、玄関のドアを開けにいくか机の下に潜り込むかします。今は友だちにプレゼント予定のAQUA5の水もありますし・・・。(関係ない)
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